黒色春日和

ダーティな思いつきをキューティにお届け☆

Nocturne

ある日、夜道を歩いていると向こうから女性がやってきて声をかけてきた。

「出刃包丁を売ってる店を知りませんか?」

私は知りませんと答えた。

ふと女性の方を見ると女性は髪からその着ている白いドレスまでが何やら緑色のドロドロしたものにまみれている。

僕が後ずさりすると女性は距離を詰めてきて言った。

ロシア帝国ウクライナキエフ近郊の村に生まれる。両親はポーランド人であり、マレーヴィチにはウクライナ語で話し、ポーランド語で書き、後に習得したロシア語で活動を行うという語学的分裂が生まれたとされる。1910年頃には、ピカソなどのキュビスム未来派の強い影響を受けて派生した、色彩を多用しプリミティブな要素を持つ「立体=未来派クボ・フトゥリズム)」と呼ばれる傾向の作品を制作していた。その後の1910年代半ばに作風は一転し、無対象を主義とする「シュプレマティスム(絶対主義)」に達した。彼が試みたのは、精神・空間の絶対的自由であり、ヨーロッパのモダニズムと「未来派」はここに「シュプレマティスム」という到達点へ至った。彼は前衛芸術運動「ロシア・アヴァンギャルド」の一翼を担い、純粋に抽象的な理念を追求し描くことに邁進した。作品は『黒の正方形(カンバスに黒い正方形を書いただけの作品)』や『白の上の白(の正方形)』(白く塗った正方形のカンバスの上に、傾けた白い正方形を描いた作品)など、意味を徹底的に排した抽象的作品を追求しており、戦前における抽象絵画の1つの到達点であるとも評価されている。また、その前衛的主張ゆえにロシア構成主義に大きな影響も与えた。1920年代には、巨大建造物を想起させる『シュプレマティスム・アーキテクトン』シリーズという造形物を設計し構成。この頃、鮮やかな人物画を描くなどやや具象寄りの表現も行う。やがてスターリン政権下のソ連で美術に対する考え方の保守化が徹底し、前衛芸術運動が否定され、芸術家は弾圧された。「生産主義」に走った多くの同志たちと袂を分かち、マレーヴィチは一介の絵師として写実的な具象絵画に戻り、その一生を終えている。抽象絵画において最も極限まで達していながら、最終的には、ありふれた具象絵画に戻ったというマレーヴィチの生涯は、政治に翻弄された美術家の姿の典型かもしれないという言い方がされることもあるが、一般には白紙という究極の抽象に達したマレーヴィチには具象への回帰以外に芸術を続ける道がなかったのであるという評価がなされている。また、一見具象に戻ったように見える彼の作品も、それは見かけであり実際には主題の欠如(対象が描かれない)など独特の表現を含んだ非具象画であったとも言うことができる。」

カジミール・マレーヴィチWikipediaの概要欄だ。

と僕は瞬時に思った。

最終更新日時が2022年3月3日 (木) 03:26 の記事だ、とも思った。

女性は懐からバタフライナイフを取り出して僕を刺した。

ドロドロとした血が流れた。

僕は大量に血を流したが、死ななかった。

女性は去っていった。

その後ろ姿を見て少し寂しさを感じた。